四
平沢たちが食堂へ着くと、すでに二十名ほどの学生が集まっていた。白いライン入りの黒ジャージ姿から、ひと目で同期の学生だとわかる。
食堂内には横長のテーブルがずらりと並び、それぞれのテーブルには八脚ずつ椅子が裏返されて重ねられていた。数が多すぎてわからないが、ざっと見て三百名ほどは収容できそうだ。
カウンターの奥では調理師たちが食事を用意しており、肉じゃがに似た食欲をそそる香りが立ちこめている。物珍しげに食堂内を見渡していると、黒ジャージ姿の学生たちが次々とと集まってきた。
チャイムが鳴る。警察学校でも普通の学校と同じ音だった。奥の柱に据え付けられた大きな壁時計を見ると、時刻は十一時三十五分を指している。
やがて階段を登って、教官が一人食堂へ入ってきた。朝、竹刀を手にして凄んでいた教官である。その教官は学生たちを見回すと、まっすぐ平沢に近づいてきた。
「お前」
声をかけ、平沢の左腕に目線を移す。ジャージの左腕には、名前が刺繍されている。
「平沢、全員に指示を出して食事の準備しろ。お前ら、この平沢の指示に従って動け」
頭の中が真っ白になった。混乱したまま「はい」と返事をする。何から手をつければいいのか、まるでわからない。それでも、まず椅子は降ろすべきだと判断する。
「ぜ、全員、自分の座る席に集まってください」
学生たちは顔を見合わせながら、ゆるゆると動き始めた。全員がテーブルについたのを見て、
「全員、テーブルの上の椅子を降ろしてください」
不安を押し隠しながら出された指示を受け、学生たちはガタガタと音を立てて椅子を降ろし始めた。
次は何だ。何をすればいい。食堂の中を見回す。カウンター近くの柱の脇に、身の丈ほどある大きな金属製のキッチンワゴンを見つけた。近づいて確認すると、皿やボウルなどが入っているようだ。
なんだか地面の感覚が乏しい。硬いフローリングの上を歩いているはずなのに、柔らかい地面を踏んでいるような錯覚にとらわれる。
「全員、一枚ずつ皿を取って、カウンターから食事を受け取ってください」
平沢がそう指示を出すと、
「先に手ぇ洗え!食中毒起きるぞ!考えて指示出せ!」
容赦なく怒号が飛ぶ。他人から怒鳴られる、という経験は少ない。心にズシンと響いて、精神が削られていく。
「あ、はい。全員、手洗い場どこだ。あれ?」
平沢は混乱し、言葉が詰まる。すると、戸嶋が助け舟を出す。
「平沢さん、奥に手洗い場ある」
指さされた先には、トイレが見える。その隣にある手洗い場の存在にも、遅れてようやく気づいた。
「あ!ありがとう。全員、奥の手洗い場で手を洗ってから戻ってきてください」
学生たちが一斉に手洗い場へ急ぐ。
「食堂で走るんじゃねぇ!怪我するぞ!」
教官が間髪を容れず叱責する。ほんの少しだけ時間ができた。手洗いは最後にしよう。平沢はキッチンワゴンを再び覗く。|箸《はし》、スプーン。これはすぐに配れる。湯呑み。お茶が用意されているのだろうか。カウンターに目を移すとポットが置かれている。あれかもしれない。
最初に手洗いを終えた学生たちが戻り始める。
「それでは、戻ってきた人から、箸入れを持ってテーブルに箸を配ってください!」
再び教官が口を出す。
「テーブル拭く前に箸を置くんじゃねぇ!食中毒を起こすなってさっき言ったぞ平沢ァ!」
〈くそ。正解はなんだ。もうあんたが指示してくれ……〉
内心で毒づきつつも、平沢はテーブルクロスを見つけた。
「はい!テーブルクロス⋯⋯乾いてる。ので、えーと、手洗い場で絞ってから水拭きをお願いします!」
声に力が入らない。だが腹の底力を振り絞り、勢いでごまかすしかない。罵声を浴びれば浴びるほど、気力が萎えていく。集中しないと。
テーブルクロスを手に持った学生たちが手洗い場へ向かう。キッチンワゴンを確認していると食堂の入口の方から、
「お疲れ様です!」疲れ様で「様です!」れ様です!」です!」疲れ様です!」
挨拶の絶叫が反響のように連なって響く。水色のジャージを着ている学生の集団だ。顔立ちが若い。おそらく高卒枠の学生たちだろう。ちらちらとこちらに視線を向けながら、手洗い場に並んでいく。一部の学生だけが椅子を降ろし、遅れて手洗い場へ向かう。効率化のために分業されている様子がうかがえた。
やがて黒ジャージの学生たちが戻ってきて、平沢を見つめる。指示を待っているのだろう。だが平沢自身、誰かの指示が欲しかった。
「お盆にお皿と茶碗とお椀を入れて、カウンターで食事を受け取ってください!」
次々と戻って来る学生たちに、同じ内容を繰り返し伝える。テーブルクロスを絞ってきた学生には、テーブルを拭くよう指示を出す。
ところが、食事を運びに行った学生がすぐに戻ってくる。
「お盆に同じ食器を入れて持って来いって怒られました」
その後も、食事を入れてもらえなかった学生たちが続々と戻って来る。——何もかもうまくいかない。
「すいません、指示を変更します!お盆には同じ種類の食器を入れてください!」
お皿だけ、お椀だけ、茶碗だけ——それぞれ一種だけを載せたお盆を持って、学生たちが再びカウンターへ向かう。
「俺、いまやること無いけど、なんかやる?」
トドのような体型の西島が近づいてきた。
「それじゃ、箸をお願い」
平沢は西島に、箸が大量に入った箸入れを手渡した。手持ち無沙汰な学生は意外と多いようだ。食事を配り終えたら作業もひと段落のはずだ。
「お前ら一旦、手ぇ止めて席につけ。全員だ、全員。急げぇー!」
食堂にただ一人いる教官が声を張り上げる。今度は何が始まるのかと警戒しながら、平沢は席についた。カウンターで食事を受け取っていた学生たちも、遅れて着席していく。ふと見ると、青色ジャージの学生が、壁時計のかかった柱の前で気をつけの姿勢を取っていた。
「黙想!」
その学生の声が響く。
「全員、目ぇつぶれ」
教官が続けて命じる。静寂が食堂を包んだ。
平沢の内に説明できない不安が生まれ、そっと息を細く吐いた。目を閉じて一分ほど経った頃、複数の足音が近づき、通り過ぎていく。控えめに響く着席の音。
「黙想やめ!いただきます!」
柱の前の学生の掛け声に、青色ジャージの学生たちが一斉に『いただきます!』と唱和した。途端に、彼らのテーブルから談笑と食器の触れ合う音が立ち始める。
「平沢ァ!急がねぇと飯食う時間なくなるぞ!」
名指しされ、平沢の胸に焦りが募る。
「⋯⋯はい!手の空いている学生は、そのまま席についてください。食事が足りない分は、引き続き取りに行ってください。私は手を洗ってくるので少し離れます」
せめて、正解を知っておきたい。平沢は手洗い場へ向かいながら、青ジャージの学生たちのテーブルを横目で盗み見た。テーブルの上には、箸、皿、お椀、茶碗——それはいま自分たちが用意している。あとは、ポットと湯呑みが足りない。先ほど食堂内を通り過ぎたのは、教官たちだったようだ。
手洗い場で手を洗っていると、頭痛を自覚した。脈打つたびに頭がガンガンする。煩わしい。痛みを無理やり無視して足早にキッチンワゴンへ戻る。
「手の空いている学生、カウンターのポットをテーブルへ運んでください。それと、各テーブルから一人、お盆にテーブルの人数分の湯呑みを載せて持ち帰ってください」
学生たちは素早く動き、配膳も無事に終わったようだった。だが、食事がいくつか余っている。指示が悪かったのだろう、誤って多く受け取ってしまったようだ。そこまで頭を回す余裕はなかった。
「足りないものはないですか」
平沢が学生たちに呼びかけると、パラパラと「はい」「なし」といった返事が返ってくる。どうやら準備は整ったようだ。教官のもとへ報告に向かう。
「失礼します。食事の準備、整いました。」
「そこの余った食事、どうすんのや。」
教官はテーブルの隅に寄せられた、余った皿やお椀に目を向ける。
「……私がいただきます」
「食器洗わせる手間を増やすんじゃねぇ!⋯⋯時間がないから号令かけろ」
「はい」
平沢は壁際に寄り、学生たちに向き直る。
「いた——」
「聞こえねーぞ!」
教官の叱責に、腹に力を込めて叫ぶ。
「 い た だ き ま す !」
『 い た だ き ま す !』
全員の声が食堂に響き渡る。
平沢が席につくと、「やべぇ」が口癖の綿貫が声を潜めて励ました。
「お疲れ。気にすんなよ」
「うん、ありがとう」
気の抜けた笑顔を浮かべながら、平沢は返す。正直、食欲など残っていない。このまま眠ってしまいたい。けれど、食べなければ今日を乗り越えられない気がして、緊張が収まらずに震える箸を握りしめ、食事を無理やり胃に押し込んだ。
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