「大丈夫、傷つけるつもりはないよ!」
束の間の笑みを見せたオキヒは再度、獣に斬りかかる。獣がイセイを盾にした瞬間、オキヒは剣を手放すと、そのままイセイを抱き寄せた。
「少し目をつぶってて。すぐ終わるよ」
「はい!?」
展開についていけず、驚いて心拍の上がったイセイは目を閉じた。オキヒは右手でイセイの身体を支え、左手を獣の右目に突き入れる。同時に獣はイセイを拘束した鞭を残して爆発し、吹き飛んだ。遅れて鞭がイセイの体から解け落ちる。ぼたぼたと地面に落ちた黒い液体はふるふると震えている。
「あれはもう、生きてはいない。悪いけどとどめをさすよ」
腰縄にくくりつけた檻の中の仔狼に話しかけるが、仔狼は答えない。オキヒは燃え落ちた獣の頭に火球を放つと黒い液体とともに激しく燃え盛る。あとには獣の額に埋まっていた黒い珠がひび割れて残されていた。頭が焼失すると獣の体も力を失って横倒しになった。体にも火球を放ち、燃やし尽くす。
狼の燃え跡から白い煙が立ち昇った。檻の中の仔狼はきゅうきゅうと鳴き出し、檻の隙間から前足を伸ばす。煙は不自然に仔狼に向かって近づいていく。オキヒは短刀を取り出して檻の柵を切り、仔狼を自由にした。仔狼は待ちきれずに駆け出し、煙に飛びつく。
「あの、オキヒ様。ありがとうございました」
イセイは髪を直しつつ礼を伝える。
「いやいや、役得だよ。熱くなかった?」
オキヒの調子はいつも通り軽い。
「ええ、全く。私は大丈夫です」
なぜかイセイは落ち着かなかった。
「なら良かった。ああごめん、撥ねてたみたいだ」
オキヒはイセイの頬についた黒い液体を拭う。
「……ありがとうございます。あの!オキヒ様はお怪我などありませんか?」
イセイは少し落ち着こうと努力する。余裕をもって戦いを終えたオキヒは鷹揚に頷く。怪我はないようだった。飛び跳ねて煙にまとわりつく仔狼の姿が目に映り、イセイは呟く。
「あれが御霊ですか」
イセイには、煙に何らかの意思が感じられた。
「うん、不思議だね。すべての生物の中にああいうものがあるのかな」
オキヒは長く狩りを続けていたが、こういったものを目にしたことはなかった。
「獣の体に流れていた黒い液体はシキ様に見せていただいたのと同じものでしょうか」
「たぶんね」
二柱は少しの間、仔狼が煙に戯れついているのを眺める。
「オキヒ様。タカマ山の主の御霊ですが、私は冥界の管理者にしたいと思います」
もしタカマ山の主が子どもを襲う現場に居合わせなければ殺してしまうことはなかっただろう。本来なら、世界を見渡す千里勾玉の守護者として相応しかった。どういう巡り合わせのためなのか、こうなった今なら冥界の管理者として山の主に比肩するものはいないように思えた。
「人をたくさん殺した狼の群れを率いていた長だったらしいけど?」
「人も狼も生きるために争ったのでしょう。どちらが悪いというものでもありません」
神にとって人と獣の価値に違いはない。
「なるほどね」
煙がイセイの元へ近づいてきた。仔狼も一緒についてくる。
「我を失って自分の子供を殺してしまうところだった。お前とは生前、殺し合った間柄ではあるが、正気に戻してもらい、感謝している。そしてオキヒ殿。あなたにはまた助けられた、感謝する。心残りは我が子のことのみだ。群れは離散し、この子を世話する者はいなくなってしまった。後を託してもよいだろうか」
イセイが仔狼を見つめると仔狼は首を傾げる。
「私は、近い内にここから去らねばなりません。ですから、この仔狼は近くの村人に頼んでみるつもりです。よく知っている方なので信頼できますよ。それと、本来私がここへ来たのはタカマ山の主に神器の守護者になってもらうためなのです。この子を私の眷属にして、タカマ山の主になってもらいたいのです」
煙はゆらゆらと揺蕩う。
「それは我の決めることではない。この子に決めさせるとよいだろう」
「わかりました。では次に、あなたへのお願いです。あなたのように死んだ後も地上を彷徨うことが無いように、死者の国を作るのですが、その国の管理をあなたにお願いしたいのです。申し訳ありません、オキヒ様。勝手にこのような提案をしてしまいましたが、私はタカマ山の主だったこの方が適任だと思うのです」
イセイはオキヒの様子を伺う。
「あー、うん。いいんじゃないかな?管理者はいた方がいいかもね」
オキヒは軽く手を振る。冥界を治める者について高い関心はなかったが、悪い提案ではなさそうなので反対する理由もない。
「消えるのだと思っていたが、まだ続くか……。それもいいだろう。このまま終わるよりは退屈しないで済みそうだ」
冥界の管理者になるのなら、いずれ我が子に会うこともあるだろう。
「ありがとうございます。それでは、あなたも一緒についてきてください」
イセイたち一行はしばらく森の中を進んでいった。
「そういえば、あなたとその仔狼に名はあるのですか?」
イセイは冥界の管理者として山の主のことをもう少し知っておきたかった。
「我が名はオオシだ。その子の名は……言葉がわからないからな。名はあるが、呼んだことはない」
「なんという名前ですか?」
「タルケだ。人の言葉で食事に満足するという意味だ。飢えてほしくはないからそう名付けた」
「良い名だと思います。オオシはどうやって人の言葉を覚えたのですか?」
「きっかけはやはり、昔オキヒ殿に助けられたことなのだろうな」
名を呼ばれてオキヒは会話に加わる。
「ごめん、どこで会ったんだっけ?」
うーん、と記憶を探ってみるがオキヒは思い出せない。
「異形に成り果ててしまったからな、気づかぬのも無理はないだろう。数年前だ。狩りの途中に熊に襲われて怪我をしたところをオキヒ殿に助けられた」
「うーん、そんなこともあったかな?」
「怪我が治るまで一月ほど共に暮らしたのだがな」
「まあ、僕がしそうなことではあるね。ねえオオシ、なんで蘇ったか覚えてる?」
「いや。蘇ったときから意識ははっきりせず、夢をみているようだったな」
一行が森の中を進んでいると、冷気が漂ってきた。人が三人並んで入れるくらいの穴が山の斜面に開いている。冷気はそこから漏れているようだった。
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