その者がこの地を訪れたのは、実験の条件に合う獣を探すためだ。見当をつけていたので見つけるのはそれほど難しくなかった。当てはまったのは狼。想像の範囲内だ。その狼の群れは人里の一部に交わる形で縄張りを作っている。これは嬉しい誤算だった。通常の狼の群れならば十匹に満たないが、この群れは複数ある通常の群れを一匹の狼が統率し、数十匹の群れとなっている。巨大な群れを構成する通常規模の群れそれぞれに長がいるが、その長たちすべてがその一匹の支配下に置かれていた。
 群れの長は、通常の狼に比べると体の大きさが二倍近くある上に、人の言葉を理解しているようだった。一匹ではなく一頭と数えた方がふさわしいかもしれない。この狼ならうまく動いてくれるだろう。
 続いて、縄張りに交わる人里の内情を探る。村では飼っている豚や鶏がたびたび狼の被害に遭っているようだった。それもまた好都合だ。
 その者は、使えそうな村人を探す。怪我で臥せっているタオツキという男に目をつけた。狩人らしいが、数ヶ月前から療養していることがわかった。
「タオツキさん、邪魔するよ」
 タオツキが臥せっていると、元気な声が聞こえる。隣に住むツグノだ。いつも甲斐甲斐しく世話をしてくれている。十年くらい前、まだ子どもだったツグノが熊に襲われているのを助けてから何か理由をつけては家を訪れて遊びに来るようになった。妻と結婚してからツグノが訪れる機会は減っていたが、早くに妻を亡くして独り身になるとまた料理などを持ってくるようになった。満足に動けないので来てくれて本当に助かっているのだが、弟弟子のウチナリにもよくからかわれるので、どうにも気恥ずかしい。
 タオツキは三十歳、ツグノは十八になる。タオツキがまだ元気だったときまで、その日に捕れた兎や鴨をお裾分けしていた。体が治ったら受けた恩に報いたいのだが、なかなか快方に向かわないのがもどかしい。
「いつもありがとう、ツグノさん」
 狼に囲まれ、死角から噛まれた左の太ももを庇庇いながら体を起こす。痛まないように体を動かすことにも慣れてしまった。タオツキは着ていた寝間着を座ったまま脱ぐ。この時代、寝具としての掛け布団や毛布はなかった。初夏に向かう今の季節なら貫頭衣を少し厚手にした寝間着、冬なら綿の入った足まで覆う丈の長い厚手の寝間着を着て寝ていた。
「あんた怪我人なんだから、無理して起きなくていいんだよ」
 これもいつもの挨拶になっていた。ツグノは料理の入った土鍋を筵の上に置く。
「足の怪我だから座るのは大丈夫。それより、毎日わるいね」
 ツグノは持ってきた皿を土鍋の脇に用意し、木のお玉で掬って移している。その姿を眺めていると、つい亡くなった妻のことが頭をよぎる。
「何を言ってんのさ。遠慮なんかして水臭い。元気になったらまた鴨でも分けてくれればいいさ」
 タオツキが怪我をしてから、ツグノはこうして食事を持ってきて食べ終わるまでたわいない話をし、食器を持って帰る。ありがたいことだ。いまの村長に変わるまでは、米や豆を育てていなかったので村としての蓄えもなかった。以前なら怪我人を養う余裕なんてなかっただろう。
 狩りの仕方も戦う術も村長夫妻に教わった。初めは鍛冶の方法も学んだが、自分には向かないとすぐにわかった。いまは弟弟子のウチナリが鍛冶師をして、タオツキは狩人をしている。彼の作る道具はタオツキの動きによく馴染むので、ウチナリが作ったものを|愛用していた。
 生まれた場所にも人にも恵まれ、タオツキは運が良いのだろう。感謝してもしきれない。早く元気にならなければならないのだが、狼にやられた足の痛みは、数ヶ月経ってもひかない。眠れないほどの痛みではなくなった程度だ。まだ狩りに出られる状態ではない。
 ツグノが帰るとまだ明るいというのに眠気が襲ってきた。怪我をしてからあまり動けなくなったので、めっきり体力が落ちてしまったようだ。しばらくうつらうつらとしていたが、急な悪寒に襲われる。目を開けるとまだ明るい。息苦しい。何か別の病気にかかったのだろうか。体の芯から震え始める。
 思わず、寝間着の襟を両手で掻き合わせる。
ふと気づくと、誰もいなかった竪穴住居の中で、大きな黒い塊が目の前にある。
 全身の毛穴が広がり、冷や汗が吹き出す。声を出しそうになるが、喉が締められたように詰まっている。
 黒い塊はタオツキが今まで見たこともないような、美しい女だった。一瞬呆けるが、言いようのない恐ろしさを感じる。
「謝ることも、言い訳もしないよ。君はただ、巡り合わせが悪かっただけだ。今までの行いが悪かったわけでもない。たまたま、私の行く道の前に役に立ちそうな君がいた。それだけのことだ」
 女はこの世のものとも思えない冷たい微笑みを見せ、袋から取り出した黒い珠を右手に摘む。左手をタオツキの胸に伸ばすと、上半身を起こして距離を取ろうとしていたタオツキの手から力が抜ける。女は無遠慮にタオツキが着ている寝間着の前襟を開き、タオツキの胸に黒い珠を載せる。すると、黒い珠は鈍く光り、タオツキの胸に埋まる。
 タオツキの顔は苦痛で歪み、叫びだしそうな表情を見せるが、声が出せない。体が激しく痙攣する。だがそれもすぐに収まり、タオツキは動かなくなった。
 女はタオツキを一瞥すると、現れたときと同じように突然姿を消した。
翌朝。ツグノがタオツキの許を訪れたが歩けないはずのタオツキの姿がない。その日以来、タオツキは村から行方をくらました。
	
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