「これは隠舟と言ってね。ヒノワ様から借りてきたものなんだけど、天と地を行き来できる舟なんだ。神も地上の生き物も乗ることができる」
説明しつつイセは舟に乗り込むと、舟の中に置かれていた一振りの剣と一張の弓を取り出す。
「それと、地上は危険がないとは言えないからね。あげるよ。この剣は磐撫というんだ。斬れ味は保証するよ。こっちの弓は影縫といってね。弦はないけど、射る動作をすると風の矢が飛んでいくから、矢も必要ない」
シラスは剣を、キサイは弓を受け取った。
「それでは、さっそくですが地上に下りましょうか」
シラスが舟に乗り込もうとしたところをシキが呼び止める。
「私は少し用意したいものがあるから、先に行っててくれるかな。月宮と地上では時間の流れ方が違うから地上では数日後になるだろうけど、すぐに追いつくよ」
シキがそう告げるとシラスは立ち止まる。
「それなら、少し待ちましょう」
シラスが舟の前で振り返るとキサイもシキに向かって頷く。
「いやいや、それには及ばないよ。最初のうちは私が必要になることもないからね。大丈夫、君たちがどこにいても見失うことはないよ」
「しかし、舟はどうするのですか?」
シラスは隠舟がなければシキが地上に降りられないのではないかと気にかけた。
「呼べば戻ってくるから問題ないよ。ね、イセ」
「うん、隠舟は誰も乗っていなければ呼び戻すことができるよ」
シキとイセはこともなげに答える。難しいことではなかったらしい。
「そうでしたか。それなら一足先に降りていますね」
そうしてシキは立ち去った。
「それじゃ、神格を封じるよ。全員、隠舟に乗って」
その場の全員が隠舟に乗り込むと、シラスとキサイは舟に立てられた四本の柱の中に立つ。ミツハとミカゴがそれぞれ一着ずつ羽織をシラスとキサイに着せる。イセは、勾玉がぶら下がった首輪を二つ取り出し、シラスとキサイの首に掛ける。ミツハが神酒の入った坏をシラスに渡すと、シラスは神酒を捧げた後、その半分を飲み、キサイに渡す。キサイもまた坏を捧げ、残った神酒を飲み干し、ミツハに返す。ミカゴは細い縄を二つ取り出し、シラスとキサイの首に掛けられた勾玉の穴に縄を通し、縄を結ぶ。
「シラス、キサイ。君たちの神格は封じられた。月宮に戻るときは、この羽織は必ず着ること。勾玉はどんなときでも身につけておいてね。これは魂結勾玉といって、一時的に神の力を使えるようにするものだから。地上には何があるかわからないから、気をつけて。」
イセは二柱を激励する。
「いろいろと準備していただき、ありがとうございます。無事に務めを果たしてきます」
シラスに気負いはない。
「隠舟はまず、天と地の境界にある榊に向かうよ。その後は、舟を降りて御先勾玉の示す方向に進んでくれ。舟が必要になったらその都度呼ぶこと。本当に、気をつけてね。」
イセの心配は尽きない。
「はい、では行って参ります。」
隠舟は宙に浮き上がり、ゆっくりと前進していく。
シラスとキサイを乗せた隠舟は揺れもなく浮遊していたが、天井のある紡錘形の形態に変形する。舟は徐々に霧に包まれ、下降していく。かすかな振動とともに、隠舟は紡錘形から、また天井が開いて舟の形に戻った。
「地上に着いたようですね」
ミカゴから説明があったとおり、舟の隣には一本の立派な榊が生えていた。山の中腹、森の中に降り立っていた。森の木々は背が高く、陽の光は切れ切れに差し込んでいる。青や赤、黒など色とりどりの小鳥が森の中を飛んでいる。川が近いのだろう、せせらぎが漏れ聞こえてくる。
「美しい風景ですね」
「ええ、そうですね」
キサイの感想に同調したシラスだったが、地上に降りてから感じる花の蜜や動物の体臭、排泄物などが混じり合った森の臭いはシラスにとって不快なものだった。だが、それもすぐに慣れた。
「この榊からは神気を感じますね」
キサイの言う通りかすかではあるが、シラスにも榊から神々しい雰囲気が感じられた。
「ええ、おそらくここが霊脈の中心なのでしょう」
隠舟の性能を疑っていたわけではないが、あっけなく使命の一つを果たせそうだった。
「注連縄を締めてしまいましょう」
キサイは、懐から注連縄を取り出し、一方の端をシラスに渡す。二柱は榊の幹を挟んでくるりとそれぞれ反対の方へ回り、再び出会ったところで結び目を作る。すると、榊は淡く光り輝き始める。
「この門のことを、これから大榊森門と呼ぶことにしましょう」
「ええ、良いと思います」
シラスの命名にキサイは賛同する。榊を巣にしていたのだろうか、一羽の雉鳩が地面に降り、ぽう、と鳴いてシラスの方を向いた。
「これもなにかの縁でしょう、この雉鳩を門の管理者にしましょう」
シラスは、短刀で指を切り、そこからぷくりと流れ出た血を雉鳩に舐めさせた。すると、雉鳩の羽毛が朱色に変わる。
「お前は私の眷属となった。名をクモリとする。お前には、ここで門を守ってほしい」
「はい、謹んでお受けいたします」
クモリはバサリ、と羽をはばたかせて返事をする。
乗ってきた隠れ船は消えていた。おそらくシキが呼んだのだろう。二柱はそのまましばらくシキが降りてくるのを待ってみたが、隠れ船は現れない。月宮と地上では時の流れが違うとシキは説明していたので、やはり地上で数日経った後にシキは降りてくるのだろう。
「次の目的地に向かいましょうか」
シラスは首にかけた御先勾玉を握る。勾玉の示す方へ向かって山を下り、二柱は地上で一番高い山を目指して進み始めた。
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