「中を覗いてみましょう」
洞窟内に入ると少し肌寒いが、初夏の季節には心地よかった。内部は岩肌に囲まれて天井から水が染み出し、足元は濡れている。そこかしこから水滴の落ちるぴちょん、ぴちょんという音が洞窟に響く。細長く|幾重《いくえ》にも通路が別れていて、すぐに迷いそうだ。奥へ進むほどに暗くなる。オキヒが指先に火を灯すとその周りだけ景色が浮かび上がった。
「中も広そうだ。この洞窟でいいんじゃないかな」
広くて迷いやすい構造であることは、万が一、生きているものが入り込んでしまった場合に備えた冥界側にとっての利点と言えるだろう。生者と死者の交流は好ましくないので、冥界の情報を生者に知られるのは避けるべきだ。死者にとって冥界は死後に安らぐための場所であり、生者との交流は生への未練につながる。生者にとって冥界を知ることは故人への執着を生む危険と、死への逃避を誘発させる恐れがある。生者がそれぞれしっかり生きなければ世界はいずれ行き詰まるだろう。
『生き物の精神は単純であるほど強く、私たち神も含めて知性が高く複雑になるほど精神は繊細になるからね。とくに知性の高い生き物に冥界の情報は秘匿すべきだろうね』とシキは語っていた。
迷わないよう曲がり角のたびに小さな火を残して浮かべながら、さらに奥へ進んでいくと、竪穴住居を四軒集めたくらいの広さがある空間に辿り着いた。その広間の中ほどに、猪一頭くらいあろうかという大きさの岩が目についた。
「この岩に珠を据えるのが良いのではないでしょうか」
「そうだね。なかなか良さそうだ。ところで、ここは野営にも適してないかな?」
広間の中は地面が濡れていなかった。山から染み出す水の通り道が長い期間を経て変化したのかもしれない。
「たしかに今日はもう遅いですね。明日の朝にしましょうか」
二柱は野営の準備を整え、その日は休むことにした。タルケも丸くなり、煙がすぐそばに浮いている。
翌朝、イセイは懐から御霊玄室を取り出し、岩の上に据えた。すると、その宝珠は鈍く輝き、岩の中へ半分ほど埋まった。そこへオオシの御霊が吸い寄せられ、生前の狼の形を取った。タルケはきゅうと鳴いてオオシの体に前足を交互に踏みつける。オオシも愛おしそうにタルケを舐める。しかし、互いに触れ合うことはできない。
オキヒとイセイは広間から細く伸びる複数の隧道を大雑把に調べ、洞窟内の探索を終えた。二柱が広間に戻ると狼の群れの御霊が御霊玄室に引き寄せられ、集まっていた。オオシに甘えていたタルケをいじましく思いながらイセイは話しかける。
「ここは死者の国になりました。もう生きているものがここに留まることはできないのです。一緒に帰りましょう」
タルケも理解していたのか、素直にイセイの腕の中に飛び込んだ。イセイはタルケを撫でながら目を合わせる。
「まだどういうことかわかるのは難しいかもしれないけど、私の眷属になって、タカマ山の主になってくれる?」
タルケは短く鳴き、イセイの手を舐める。
「ちょっと失礼」
オキヒはタルケの頭をするりと撫でると、もぐもぐとタルケが口を動かし始める。
「かあさまとぼくをたすけてくれて、ありがとう。よくわからないけど、ぬしになる。かあさまもそうだったから。けんぞくになるよ」
「ありがとう。オオシ、いいかしら?」
「タルケが自分でそう決めたのなら、それでよい」
「ありがとう。タルケ、眷属の契約を結ぶから、私の血を舐めてね」
イセイは短刀で指を切り、タルケの口元に差し出した。タルケが血を舐め取ると灰色だった体毛が朱色に変わる。
「タルケ、最後だからお母さんとご挨拶しなさい」
イセイがそう促すとタルケはイセイの腕の中から飛び降りる。
「かあさま……」
きゅうと鳴いてタルケはぽてぽてとオオシのもとへ近寄る。オオシは伏せて顎を地面につけタルケと目線を合わせており、タルケはオオシの顔を舐める。オオシもタルケの全身を舐める。だがやはり、オオシの姿は幻にすぎない。タルケとオオシはお互いにきゅうきゅうと鳴き交わす。
「……いつかまた、あいにくるね」
「いつまでも待っている。だから、生に飽きるまで来ることは許さぬ。達者でな」
タルケは一声鳴くと、イセイの腕の中に飛び込み、顔を埋める。
「もういいよ」
腕の中から籠もった声が漏れる。
「そう。……オオシ、あとは頼みましたよ」
イセイとオキヒ、タルケは広間を後にした。洞窟の入口に戻り、イセイとオキヒは生き物が洞窟へ入れないよう、結界を張った。現世との位相をずらす結界である。生き物が洞窟に入ると、冥界に入ることはできず、結界を張る前の現世の洞窟につながっている。反対に、冥界の洞窟の中から結界を出ると、冥界のものは現世に出ることができず、現世と景色は同じだが位相のずれた冥界に出ることになる。これで万が一にも現世と冥界が交わることはないと思えた。
タルケは最後に洞窟の前で遠吠えする。洞窟の中からオオシの遠吠えが届いたような気がして、タルケは片耳を傾けた。
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