ヤネリは狂い人と呼ばれる村人たちがタカハに捕まえられているのを見続け、不安な気持ちが膨らんでいった。母はこれからどうなるのか。今はまだ捕まえられているだけで、また殺されてしまうのではないか。狂い人は村人を襲い続けている。許されることはないのではないか。その不安を拭い去ることができない。だから、『たくさん来た!狂い人だ!』という声に釣られて警備の男たちがいなくなった隙に母を連れ出した。
「お母さん、どこも痛くない?」
ヤネリはヨミヤの首筋についた狼の噛み痕を見る。血の痕は拭き取られているが、傷口はそのままだ。ヨミヤは答えない。ヨミヤの目は虚ろで、ヤネリの方を見てはいるが目が合わない。それが少し悲しかったが、ヤネリが手を引くと素直についてきていた。
二人が森を進んでいると、道の先から獣が一匹近づいてきた。ふらつきながら、ゆっくりと進んでくる。足も引きずっているようだ。お腹でも空かせているのだろうか。さらに近づくと、その獣は狼だとわかった。だが、様子がおかしい。よくみると後足が一本、途中からなくなっている。首の骨も折れているようであり、不安定な頭を揺らしながら歩いている。
「お母さん、だめ。戻ろう」
ヤネリは母の腕を引っ張るが、ヨミヤは歩み続ける。
「待って、お母さん。逃げよう!」
ヨミヤはヤネリの方を向き、繋いでいた手を離してどん、とヤネリの胸を押す。思いがけない力強さに、ヤネリは尻もちをついた。
「ヤネリ!」
ヤネリが自分を呼ぶ声の方を振り返ると、ツグノが走って追いかけてきていた。
「ツグノ姉ちゃん!お母さんを止めて!」
ヨミヤは狼と接触していた。狼の毛を掴み、ぐいぐいと押し戻していく。狼は首の折れた頭でヨミヤの腕に噛みつくが、ヨミヤは全く痛みを感じているように見えない。首が折れていてうまく噛めないのかもしれない。それでも邪魔だったのだろう。道に落ちていた太い枝を拾って一本ずつ狼の口に詰めていく。そのうち狼の口は締まらなくなり、ヨミヤは狼を持ち上げる。そのまま運んでいって川の中へ放り投げると、狼は下流へ流されていった。
ヨミヤはそのまま動かなくなる。ツグノとヤネリはヨミヤのもとへ駆け寄る。狼に噛まれた腕は傷ついていたが血は流れ出ていなかった。ヤネリがヨミヤに近寄るとヨミヤは顔を向ける。やはりそこには表情がなかった。
「ヨミヤさん、ヤネリを守ったの?」
ヨミヤは答えない。ツグノはしゃがんでヤネリと目を合わせる。
「ヤネリ、村に戻るよ。ヨミヤさんのことは、私が守ってあげる。大丈夫、ワケノさんもタカハさんもわかってくれるよ」
「……うん、わかった。お母さん、ごめんなさい」
ヤネリは狼に噛まれたヨミヤの腕に手を伸ばしてさする。ツグノはいたたまれなくなってヤネリを後ろから抱きしめた。ヤネリはまたぽつりと呟く。
「……ごめんなさい」
ヤネリは再び、ヨミヤと手を繋ぐ。反対の手をツグノと繋いで、三人は村へと引き返していく。
オトヤの一撃一撃は、信じられないほどの威力だった。その分、オトヤの剣捌きは稚拙になっているので余裕を持って対処できている。だが、気を抜いて一発でも食らえば大怪我に繋がり、そこで勝負は決まるだろう。そのうえ、こちらがオトヤに手傷を負わせても動きを鈍らせることができない。時間をかけるほど不利になっていく。ウチナリの体力は無限ではないが、オトヤの体力に底は見えない。
ウチナリは一気に決着をつけることにする。左右の剣で連撃をしかけ、速度を上げる。オトヤは対応できず手傷が増えていくが、血を流しても気にする様子もない。わざとウチナリは隙を見せて攻撃を誘う。思惑通り、オトヤは大振りを仕掛けてきたので、その動きに合わせて双剣をオトヤの剣の根本に叩き込む。タカハがオトヤの剣を脆くしたおかげだろう、根本から折れた。さらにウチナリは剣の腹でオトヤの顔を叩く。それでもオトヤは怯まず、折れた剣の柄を握り込んだ拳でウチナリの鳩尾を目掛けて突きを放ってきた。咄嗟に膝で受けるが、重い衝撃でウチナリは後退させられる。
「なんて馬鹿力だよ」
ワケノとタカハから受けた稽古を思い出す。ウチナリは武器を持っているのに、素手の相手にいいように殴られ、蹴られ、投げられた。あの稽古に比べればいくらかましか、とウチナリは気を持ち直す。両手の剣を鞘に納め、両腕をタカハが用意した縄の輪の中に入れて締める。適当な大きさの石を両手に握り、オトヤに殴りかかった。
ウチナリとオトヤは拳と蹴りを交わす。しばらく続けていた二人だが、ウチナリの狙った機会が訪れた。ウチナリの拳をオトヤが掌で掴んだ瞬間、自分の腕に締めていた縄の輪を広げ、オトヤの腕に通して締めた。同時に握っていた石を離し、掴まれた拳を引き抜く。その間、ウチナリは何発か殴られたが必死に耐え抜いた。ワケノやタカハに蹴られるよりいくらかましだ。オトヤに締めた輪から伸びた縄を引っ張って動きを制限できるようになったので、一旦オトヤの間合いから離れる。
ウチナリは剣を抜く。オトヤは縛られた腕を引っ張り、ウチナリを引き寄せる。ウチナリはその力を利用して距離を詰め、剣でオトヤの足を引っ掛ける。ふらついたオトヤの足に自分の足を絡ませ、縄を引っ張ると同時に肩を押すと、オトヤは尻もちをついた。そのまま縄をオトヤの体に巻き付け、立とうとして手をついたオトヤの手を蹴って転ばせる。剣を放り投げ、縄をつけたオトヤの腕ごと体に密着させて縛り、片手を封じることに成功した。
だがウチナリの気が緩んだ瞬間オトヤに首を掴まれ、片手で締められる。異常な力でウチナリは息ができない。
「……っ……」
単純な力では今のオトヤに敵わない。焦って考えることもできない。少しずつ目の前が白くなっていく。ウチナリの手が腰に差した剣の柄に伸びる。
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