平沢は二回の指摘を受け、三回目で服装チェックを突破することができた。一度ですべての不備を指摘してくれればいいのにと不満を感じたが、もちろんそれを口にすることはない。笑顔を浮かべて話をする機会はすでに失われていたし、遅れを取ればどんな仕打ちが待っているのかわからない。急がなければまずい、という焦燥感に追い立てられていた。
校門を抜けると、先を走る同級生たちの姿が見えた。
「おら急げぇ!時間ねぇぞ!」
校門の中にも学生を罵倒する男たちがいた。顔つきこそヤクザ風ではなかったが、振る舞いはまさにそれだった。平沢は同級生を追って、息が切れないように走る。しかし、たすき掛けにしたスポーツバッグが太ももに擦れ、思うように速度が出ない。背負い直しつつ体育館のような建物の脇を駆け抜けると、正面玄関が見えた。先に行った学生たちはそこに吸い込まれていく。
玄関に入ると、ロビーにはブルーシートが敷かれ、その上にプラスチック製の衣装ケースが整然と並んでいた。先に到着した学生たちがそれぞれ持っていったのだろう。部分的に空いたスペースが残っている。
平沢は見覚えのある衣装ケースを見つけた。名前の書かれた紙が貼られている。実家から郵送する際に、貼るよう指示されていたものだ。衣装ケースを抱え、再び走り出す。引越し業者じゃねぇ、と内心毒づきながら。
入校前に走り込みをしておいて正解だった。まだ始まったばかりだが、体力には余裕がある。気がかりなのは、今のところ罵倒されるばかりで、まともな指示を一度も受けていないことだ。ただなんとなく、先を行く学生について行っているだけ。見失ったらアウトだ。どうやら時間制限もあるらしい。この場所では、自分で判断し、素早く動く力が求められているようだった。
そんなことを考えながら渡り廊下を抜けると、入口の壁に「誠心寮」と書かれた四階建ての建物が見えた。男子学生に続いて中へ入ると、学生たちがホワイトボードの前に集まっていた。そこには名前と部屋番号が記されている。平沢の名前の横には「一〇一号室」とあった。おそらく一階だろう。
部屋の配置を示す案内板がないかと辺りを見回す。ホワイトボードのそば、管理人室と思しき部屋の壁に案内板を見つけた。学生たちもそこに集まっている。案内板を見ると、一階には一〇一号室から一二〇号室までが、数字順に並んでいる。これならすぐに見つけられる。時間がない。すぐに動かなければ。
「やべぇやべぇやべぇやべぇやべぇやべぇやべぇやべぇやべぇ〜!」
一〇一号室に入るなり、そんな声が聞こえてきて、平沢は思わず破顔した。同じ感性を持っているようで安心する。一〇一号室には左右にドアが四枚ずつ並んでおり、そのうち四つが開いていた。閉まっているドアのドアノブには鍵が差し込まれている。
「平沢です、よろしく。時間無いみたいだから、後でちゃんと挨拶します」
そう告げて、自分の名前が書かれたネームプレート付きのドアを開け、衣装ケースとスポーツバッグを床に下ろす。開いているドアからは「う〜っす」とか「よろしく」といった声が聞こえてきた。
部屋の中には机と収納棚、その反対側に二段ベッドほどのスペースがある。そのスペースは畳敷きで掛け布団と敷布団、毛布が畳まれており、一番上に枕が乗っていた。
衣装ケースはもう一箱あるので、もう一往復しなければならない。平沢が残りの衣装ケースを持ち帰ると、さらに二枚のドアが開いていた。衣装ケースから下着を取り出して収納棚に整理していると、ブツッ、という音に続いて、ピンポンパンポ〜ンというお知らせの効果音が流れた。すでに嫌な予感がしていた平沢は、静かに放送に耳を傾ける。
「新入学生、今から五分以内に講堂へ集合。メモ帳と筆記用具を持参すること。繰り返す。今から五分以内に講堂へ集合。メモ帳と筆記用具を持参すること。なお、講堂には正面玄関の来客受付向かいにある扉から入ること。以上」
ブツッという音ともに、放送は終了した。
「やっべぇとこ来たな、ほんと」
「予想はしてたけど、それより厳しいな」
「来客受付って、衣装ケース置いてたところだよね?」
「情報が足りなすぎんだよ。でもたぶんそうだよ」
「五分しかねぇし、もう行くべ」
「待って待って、メモ帳どこ行ったんだよぉ!」
「予備貸してやるよ。早く行くぞ」
「ありがとう、あ、あった!」
「じゃあ、行くか」
自己紹介する暇もないので、誰が誰だかよくわからない。だが、とにかくこれから同じ部屋で過ごす仲間たちには違いない。七人で連れ立って講堂へ向かう。
寮室を出ると隣の部屋の学生たちと合流し、さらに誠心寮を出ると、女子学生たちとも合流し、渡り廊下を走る。
「初日だけどもう帰りたいんだけど!」
「早い早い、でもわかる」
「超絶ブラックだな」
「ほんとそれ」
不安なのだろう、学生たちはガヤガヤと話しながら走っているが、渡り廊下からロビーへ入るドアの手前で、一人の学生が声を低くして注意を促す。
「ここ入ったら、もう喋らないほうがいい。腕立てとかさせられるかもしれない」
その通りだろう。平沢もそう感じていたので、渡り廊下でも静かにしていた。そうして、全員で無言のままロビーを抜け、講堂へと入っていった。
講堂には四席の椅子と長い机が一セットになった卓が、二十列ほど並べられていた。各列は中央、左、右に分かれており、収容人数はおよそ二百四十名になる。左には青森県と岩手県、中央には宮城県と秋田県、右には山形県と福島県の立て札が立てられていた。すでに多数の学生が席についている。平沢も、宮城県の立て札へ向かい、名前が貼られた席に座った。座席正面の壇上中央には、マイクが設置された演台が据えられていた。
まもなく、一人の男性が演台に進み出ると、講堂周辺を取り囲んでいる大人たちのうち一人が叫ぶ。
「起立!」
弾かれたように、学生たちは素早く立ち上がった。
「礼!」
張り詰めた静けさの中、衣擦れの音がかすかに響く。演台に立つ男性は、マイクを軽く二度小突いた。
「まずは入学おめでとう——と言いたいところですが、あなたたちが本当に入学するに値する人物かどうか、それを入校式までの九日間で見極めます。辞めるなら今のうちに辞めていただいて構いません。あなたたちの代わりは毎年入ってきます。仮にここにいる全員が辞めたとしても、我々としては何も困りません。あなたたちより適正の高い者を採用するだけです。どうぞ。出ていきたい者は今、出ていってください」
男性は講堂をゆっくりと見渡す。静まり返った空間に、緊張が満ちる。
「そうですか。では、まずスマホを回収します。二台以上持っている学生は全て提出してください。土日のみ返却します。平日に緊急の用事がある場合は申し出てください。日常的な連絡が必要なときは、施設内の公衆電話を利用してください。これから荷札を配りますので、自分の名前を書き、スマホに取り付けて回収箱に入れてください。⋯⋯その前に、五分間だけ電話番号をメモする時間を設けます。どうぞ」
男の言葉が終わるやいなや、学生たちは一斉にスマホを取り出し、指先を動かし始めた。連絡先を必死に書き留める者、確認する者、やや呆然と画面を見つめる者——動きには戸惑いと諦念が入り混じっている。
同時に、講堂の周囲にいた職員たちが無言で荷札を配り始める。
五分後、男が短く告げた。
「時間です。回収を始めてください」
学生たちは名札を結びつけたスマホを次々に提出していく。心細そうな表情を浮かべる者もいたが、それでも全員が無言で従った。
「それでは、これより入校式の練習を始めます。私が『学生』と言ったら、全員両足のかかとをぶつけ合わせてください。続いて、『起立』の号令で、全員立ち上がること。全員の動きが揃うまで繰り返します。⋯⋯『学生』」
講堂内に、かかとを合わせる音が響く。しかし、足並みは揃わない。
講堂には五十名以上の学生が集まっており、動作を一斉に揃えるのは容易ではなかった。何度も繰り返すうちに、徐々に揃ってくる。
だが、完全に合うことはない。ズレが目立ち始めると、容赦のない罵声が飛んだ。
やがて音が揃うようになり、「起立」の号令まで続くようになってきたが、今度は起立の動作がバラつく。
基本的に講堂の椅子は、座面が縦になっており、座ると荷重で水平になり、立つと自動的に縦に戻る構造になっている。
そのため、勢いよく立ち上がると、座面が戻る速度に間に合わず、膝の裏にぶつかる。しかも、この場で「ゆっくり立ち上がる」という選択肢は存在しなかった。
起立動作を繰り返すうちに、学生たちの膝裏には鈍い痛みが蓄積していく。
そんな訓練が一時間以上続いたところで、壇上の男が言った。
「本日の練習はここまでです。では、今後の予定を説明します。全員、メモ帳と筆記用具を出してください」
学生たちの間に、一瞬だけ緊張が緩む気配が流れる。
「本日はこのあと十時十五分から、制服などの支給品を配布します。十一時三十五分から昼食、十二時四十分から警察手帳の配布と拳銃の貸与。そして、十五時四十分から教場担当によるホームルームです」
彼らは今日、警察官としての生活を歩み始めた。
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