食堂の掃除を終える頃には、昼休みはほぼ消えていた。制服に着替えて講堂に集まるよう指示があり、集まった学生たちは無言で整列している。チャイムが鳴った。二階ほどの高さに取り付けられた講堂の壁時計を確認すると、時刻は十二時四十分。おかしい。すでに午後六時かのように体が重い。
 教官が二人、学生たちの前に立つ。片方は珍しく穏やかな表情の教官。もう一人は、昼食時に精神をボコボコに殴ってきた鋭い顔つきの若手教官だった。苦手意識が植え付けられ、そちらを見るのがためらわれる。自然と視線は穏やかな方へ向いた。
「気をつけ!……礼!」
 若い教官が号令をかける。優しそうな教官が後を引き継ぐ。
「はい。休め。私は、真壁義弘まかべよしひろと言います。拳銃操法の授業を担当しています。まだ授業はもう少し先になると思いますけど、拳銃の授業は真面目まじめに聞かないと大変なことになりますから、みなさん、よろしくお願いしますね」
 真壁教官は隣の若手教官に小声でどうぞと促す。若手教官は、「はい、ありがとうございます」と受け、学生たちに向き直る。教官も敬語を使うのか——当然のはずなのに、不意を突かれた気分になる。判教官と視線が一瞬交錯したようで、平沢は背筋を伸ばした。
「すでに何度も顔を合わせていますが、判良和ばんよしかずと言います。今後は機動隊関係の訓練を教えることになります。よろしくお願いします」
 今日の経験からこの教官に敬語は似合わないと感じていると、隣の真壁教官が口を開いた。
「これから警察手帳と吊りひも、警察手帳に入れる皆さんの写真、それと拳銃ホルスターを配布します。警察手帳は絶対になくさないでください。なくした場合、警察学校の学生も教官も含めて、見つかるまで全員で探します。みなさんが一人前の警察官になって警察署に配属されてからなくした場合は、全署員が招集されて、やはり見つかるまで全署員が探すことになります。ですので、警察手帳の管理は徹底してください。いいですね」
『はい!』
 なくす気は毛頭ない。だが、そんな大事おおごとになるとは思っていなかった。
「では、全員午前と同じ席についてください。それから名前を呼ばれた者から受け取りに来てください。写真には名前が書かれていますので、漢字と読み仮名、手帳番号を確認してください。手帳番号は午前中に配られた階級章の番号と同じです。不備があれば後で確認する時間を設けますので、申し出てください」
 宮城県の立て札と個人名の貼り紙はそのままだったため、迷わず席に着けた。学生が順番に呼ばれていき、講堂の中央先頭の机に警察手帳が入れられた箱が置かれている。平沢も警察手帳を受け取り、席に戻って写真を確認する。写真には制服姿の自分。そういえば入校前、採寸と一緒に撮影された記憶がある。
 全員に警察手帳が貸与されると、真壁教官から携帯方法の説明が始まった。
「警察手帳の折り目の両端に小さな穴が空いています。そのうち左側に、吊り紐を通してください。反対側には金具が付いていますが、この金具は、制服やワイシャツの左胸ポケットの内側にある輪っかに結着させるためのものです。
 制服着用時は制服のポケットに、夏場などでワイシャツのみの場合はワイシャツに装着します。
 次に、警察手帳をポケットへ収納する手順です。まず、手帳を二つ折りに閉じて、青森県警察とか岩手県警察とか書かれた面が自分の正面を向くようにします。吊り紐は少し長めですね。手帳を左手の親指と人差し指でつまみ、腕を伸ばして紐をピンと張ります。
 吊り紐は常に手帳の下側を通します。まず親指で紐を押さえてください。その紐を手帳の下に通して人差し指の位置まで来たら、軽く押さえてください。次に、親指のところまで紐を下に通し、そこでも押さえます。これを繰り返すことで、紐が順にたぐり寄せられ、警察手帳がだんだん身体に近づいてきます。
 最後に、吊り紐の長さが整ったらポケットに収納してください。こうすれば、取り出す際に紐が絡まりにくくなります。
 では、続いて射撃場へ移動します。ついてきてください」
 真壁教官と判教官に続いて、学生たちが移動を始めた。拳銃ホルスターは説明に従ってベルトに取り付けている。講堂を出て正面玄関のロビーを抜けると、「教官室」と書かれたプレートの掲げられた扉が見える。教官室のある建物は本館と呼ばれており、さらに進むと体育館が見えてきたが、中には入らず、前を通り過ぎた。本館と体育館をつなぐロビーの扉を出て、体育館外周をぐるりと周ると、射撃場の玄関にたどり着く。
 中に入ると、ブォーンという空調の音が耳に響いた。二十から三十ほどのレーンが並び、それぞれの奥には的が設置されている。的の背後にある壁は、下に向かうほど奥行きが広がるよう、斜めに設計されていて違和感を覚えた。学生たちは真壁教官の前に整列する。判教官の姿は見えなかった。
「では、これから拳銃を貸与していきます。交番勤務の警察官が使う拳銃にはいくつか種類がありますが、今回貸与するのはニューナンブです。一番重いですが、銃身が長い分、長い距離でも命中率は高いです。……あ、ありがとうございます」
 説明が続く中、判教官がキャリーワゴンを押して現れた。ケースが四段重ねられており、一番上のケースの中にずらりと並んだ拳銃が見えた。それらを真壁教官の後ろにある、会議用の細長い机の上に並べていく。
「これから順番に名前を呼びますので、自分の拳銃を確認してください。ケースには、名前と拳銃番号の書かれた紙が貼ってあります。自分の紙が貼られているところに収められた拳銃を取り出して、銃口を正面に向けたとき、銃身の左側——ちょうど銃把じゅうはとシリンダーの間、えー、これはモデルガンなのでシリンダーはついてませんが、だいたいこのあたりですね。ここに番号が刻印されています。その番号が紙に書かれたものと一致するか確認してください。違っていたら申し出てください。確認できたら、番号をメモして覚えておいてください。それと——」
 真壁教官はそこで一度言葉を切り、表情を引き締めて警告を発した。
「いいですか。絶対に銃口を人のいる方向に向けないでください。持つときは、人のいない方の斜め下を向けるようにしてください。そして、引き金と撃鉄には絶対に触らないこと。いいですね」
『はい!』
 呼ばれた学生たちが順に拳銃を確認していく。中には興奮した様子で隣の学生に話しかける者もいたが、すぐに判教官の鋭い指導が飛ぶ。
 平沢の名前が呼ばれ、前に出る。人のいない方向を確認してから拳銃を取り出すと、手のひらにずっしりと重みが伝わった。もちろん、実物に触れるのは初めてだった。緊張の連続で忘れかけていたが、制服に袖を通し、警察手帳と拳銃を貸与された今、ほんの少しだけ──警察官になったという実感が湧いてきた。

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