男は気がつくと、広々とした板の間に胡座をかいて座っていた。その部屋は白い土壁で囲われており、出入り口には木製の引き戸が据え付けられている。隣には女性が正座をしていた。目は閉じている。眠っているのかもしれない。自分はどこにいるのかと男は訝しんだ。いや、それよりもいままで自分が何をしていたのか、自分が誰なのかも思い出すことができない。見覚えのない部屋と人、着た覚えのない袍と袴、思い出せない記憶。ひどく心許ない。
「あの、よろしいでしょうか」
 男は不意に話しかけられ、虚を突かれた。隣で眠っていると思われた女性がいつのまにか目を開き、男を見つめている。
「はい、なんでしょう」
 男はとくにすることもないので、会話に応じる。
「ここはどこなのでしょう?」
 女性は不安気な表情をしている。
「申し訳ありません。私も知らないのです」
 問われるが、男にもわからない。女性は少し残念そうだ。
「あなたは、私の知り合いの方なのでしょうか?」
 重ねて女性に問われるが、やはりわからない。男の知っていることなど何も無かった。
「……いえ、もしかしたら知り合いなのかもしれませんが、記憶すらないのでわからないのです」
 男は答えながら少し申し訳なくなってきた。
「ああ、いえ。私の方こそ質問ばかりしてしまって申し訳ありません。状況がよくわからなくて」
 この女性も男と同じ状況のようだ。
「それは少し心強いですね。私もあなたと同じ状態なのです」
 男が微笑むと、女性も微笑んだ。不意に、引き戸が引かれて男性が広間に入ってくる。
「待たせたな、お前ら。何もわからないと思うから、今からざっくり説明する。楽にして聞いてくれ」
 唐突に現れた男は、ゆっくりと話し始めた。
それは、世界の始まりの話だった。
 始まりの世界は、混沌としておりすべてが混じり合っていた。自分や他人、物の区別などはなかった。どのくらいの長い間、世界がそうだったのかは判然としない。
 そうした永遠の中で、ある瞬間、意識が芽生えた。始まりの神の誕生だった。その名をウジという。
 ウジはまず、自分の身体を生み出した。続けて、自分の立つ地面がほしいと願った。すると、混沌は激しく炎を吹き上げ、天と地に別れた。激しく吹き上げた炎もまた意思を持ち、ホムラという神が生まれた。別れた天と地の概念に意思が宿った。天の神と地の神の名をそれぞれ、クハラとムスビという。いま説明をしている男がクハラだった。
 ムスビは地上に降り、草木や動物を生み始めた。クハラとムスビが生まれた後、ホムラは地上に降りて放浪を始め、ウジは姿を隠した。
 クハラは闇に覆われた世界を照らすために、ウジに祈りを捧げると太陽が生まれた。クハラは太陽の概念に意思を与えヒルメという神を生んだ。続けて、神々の住む世界を望み、ウジに祈りを捧げると月が生まれた。クハラは月の概念に意思を与えヒノワという神を生んだ。
 ムスビが生んだ草木や獣たちは、元気に生活していたが、しばらく経つと草木は枯れ、獣たちは元気が無くなっていった。クハラはムスビから相談を受け、ウジに祈りを捧げると風が生まれた。クハラは風の概念に意思を与えイセという神を生んだ。
 地に風が吹くと、ムスビは鳥や虫を生んだ。草木は枯れ、動物は元気のないままだったので、ムスビはまたクハラに相談した。クハラはウジに祈りを捧げると水が生まれた。クハラは水の概念に意思を与えミツハという神を生んだ。
 地が水で満たされると、ムスビは魚や貝、海草を生んだ。しばらくすると、生き物たちは暑さで元気をなくしたので、ムスビはクハラに相談した。クハラはウジに祈りを捧げると雲が生まれた。クハラは雲の概念に意思を与えミカゴという神を生んだ。
 雲が生まれると地は安らぎ、生き物は元気を取り戻した。ムスビは自分が役割を終えたことを悟り、神であることを辞めて地で暮らし始めた。
「ここまでが、今までこの世界で起きた出来事だ。ここは神の住む月の世界で、月宮と呼ばれている。俺の役割は神を生むことだ。お前たちには、月宮に住む神々を治める役割を与えた」
 クハラは説明を終えた。
「私たちはいま生まれたということでしょうか?」
 クハラの説明によるとそういう理解になるだろうか。
「そのとおり。お前らがなにもわからないのは、そういう理由だよ」
 記憶すらないのだから、そういうことなのだろう。
「クハラ様。私と、この方の名前を教えていただけますか」
 自分には月宮を治める役割が与えられたようだが、名前がわからないと居場所がないように思えた。
「お前の名はシラスだ。」
 シラス。その名を知り、自分は望まれて生まれてきたのだと少しだけ感じた。続けて、クハラは隣の女性に視線を移す。
「お前はキサイだ。……月宮を治めると言っても、わからないことだらけだろうから、お前たちの相談役も用意しておいた。シキ、入ってくれ」
 クハラが呼びかけると広間の戸が開かれ一柱の童女が現れた。紫色の袍と丈の長い黒の裳を身に着けていたが、特徴的なのは、文字のような模様のようなものが書かれた白い目隠しだった。神秘的な雰囲気を持っている。
「初めまして。私はシキという知恵の神だ。君たちの補佐をすることになっている。以後、よろしく頼む」
	
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