灰色の毛並み。もし首がついていれば、大人よりも背丈が高かっただろう。首の周りには、赤黒い染みが広がっている。首の断面、肉の中心より少し上の辺りに白い骨が見える。昨日、首を落とした狼のように思われた。
剣を構え、獣に突進する。獣の動きは素早い。頭がないにもかかわらず、剣を躱される。しかし、牙での攻撃に備える必要はないので、爪と体当たりに注意しておけばよい。獣は、右前足で大振りをしてきた。その動きに合わせ、ミヒルは剣で右前足首を斬り落とした。首を落とされても動いている。脚をすべて斬り落とせば動くことはできないだろう。
右前足を斬り落とされた獣は、振り下ろした前足を地面に着くが、バランスを崩した。痛覚もなく斬り落とされたことに気づいていないのかもしれない。好機と見て、さらに左前足に狙いをつける。剣を振り下ろすと同時に、ミヒルの左足に激痛が走る。見ると、左足に狼の頭が噛みついている。首から下はない。額には黒い珠がついている。狼の目は開いていたが、焦点は合っていない。
「……おおおおおぉお!」
ミヒルは雄叫びを上げ、何度も頭に剣を突き刺す。しかし、斬り落とされた頭は信じられないような顎の力で食いついている。なんだこれは。こんな得体のしれないものを相手にしていたのか。完全に油断していた。様子を伺って剣の力を出し惜しみしている場合ではない。
がくん、とさらに衝撃を受ける。頭に気を取られているところに体当たりを受けた。
「はは、はハハはははっ……、ハはアハハハはァはハはハハ」
狼の頭は焦点の合わない目を開き、ミヒルの左足に食いついたまま哄笑を上げる。理性の光が感じられず、ミヒルは焦りを感じる。波を打って襲ってくる痛みが神経を苛み、集中を妨げる。
獣は、斬り落とされた右前足を軸にして、半ばまで千切れた左前足を上げる。ざくり、と勢いよく突き出された爪がミヒルの腹に刺さる。千切れかけているせいで爪が深く刺さらないようだ。うまく腹に入っていかないので、獣は前足をぐりぐりと押し付ける。ミヒルはぐったりとして動かなくなった。獣の頭がミヒルの左足を咥えたまま、ずるずると獣の身体を這い上がっていく。這い上がる首の付け根から黒い血のようなものが染み出し、蠕動している。本来の頭の位置まで這い上がると、奇妙に首を傾げたまま足を引きずり、獣はその場を後にした。
日が空高く登り、森の中にも暖かな風が吹き始めた。タカマ山の主の血痕が残されていた地点にオキヒとイセイは戻ってきていた。探索を始める際、昼になったら一旦切り上げて集まることにしていたのだが、その場にミヒルの姿はない。
「ミヒル様、戻ってこられませんね。なにかあったのでしょうか」
イセイは先ほどから落ち着かない様子で顔を曇らせている。
「うん、ちょっと遅いね。当たりでも引いたかな。探しに行こうか」
オキヒは長い旅を続けている経験から、そこまで危険な状況に遭遇することもないだろう、とあまり心配していなかったが、すぐに戻れない何かはあったのかもしれないと想像した。
オキヒとイセイがミヒルを追ってしばらく森の中を北へ進んでいくと、腐ったような臭いが徐々に濃さを増した。
「良くないものがいるね」
オキヒは警戒を強める。少し油断をしていたのかもしれない、と気を引き締め直した。
「はい、嫌な感じがします」
イセイの表情は心配から警戒に変わっていく。
「武器を出しておいた方がいい。近づいてきているよ」
オキヒの助言を受け、イセイは素直に従うべきだと判断する。オキヒの感覚を信頼した方がよさそうだ。まだそこまで警戒するほど危機が切迫しているとイセイは感じていなかったが、弓を取り出して構える。
オキヒは刀身の赤い剣を鞘から抜き、だらりと剣先を下げた。
数匹の狼が行く手を阻むようにして姿を現す。オキヒとイセイが辺りを見回すと、すでに周囲を数十匹の狼に囲まれていた。どの狼も灰色の毛が乾いた血で汚れている。それだけではない。足を欠損しているものや腹が切り裂かれて内臓がこぼれ落ちているものもいる。そんなことには気づいていないように狼たちはゆらりゆらりと、囲みを狭めていく。
オキヒは剣の構えを水平に変える。
「背中は任せるよ」
オキヒは狼たちから目を離さない。
「はい、任されました」
イセイは笑顔をかすかに見せた後、目つきを鋭くする。オキヒは息吹を剣に吹きかける。同時に、剣の刀身が燃え出し、炎が勢いを強める。
「ふっ!」
オキヒは掛け声とともに剣を水平に薙ぐ。刀身から炎が放たれ、狼を焼いていく。しかし、狼の群れに怯む様子はなく、焼かれるままにオキヒに向かってゆらゆらと近づいていく。オキヒが狼を斬りつけると、狼は激しく燃え上がり、倒れていく。
その背中で、イセイは呟く。首にかけた勾玉が強烈な光を放つ。
「統治神キサイが命じます。目覚めなさい、影縫」
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