イセイが弦のない弓を引くと、風の矢が放たれ狼の身体に穴があいた。はたから見れば射られた狼は、何もないところで壁にぶつかっているように見える。射られた狼は一射では止まらない。頭の半分ないもの、上半身だけで動いているものなど、一目で生きていないと見て取れるものが動いている。狩りをするように急所を射抜いても仕留めることができない。攻め方を変えることにした。イセイは弓に力を込める。力を込めるほど矢の威力は増していく。威力の増加とともに放たれる矢の数は減ったが、イセイが一射するたびに狼の身体は数匹まとめて弾け、飛び散った。狼の背後に生えていた木も余波で砕け散る。
程なく、動く狼はいなくなった。
「オキヒ様。地上には、このようなものがいるのですか?」
まだ狼は動き出すかもしれない。警戒したままイセイはオキヒに問う。
「いや、僕もこんなものを見るのは初めてだよ。死骸が動いているように見えたね。何が起きてるんだろう」
オキヒとイセイは狼の死骸を調べることにした。見る限り、通常の狼の死骸にしか見えない。オキヒは狼の死骸を切断してみたが、異状は見られなかった。続いて、燃やしてみる。やはり、ただ燃えるだけだ。
「どうも、わからないね」
オキヒは軽く息を吐く。
「はい。ミヒル様も、この異常な狼に襲われたのでしょうか?」
生きものと呼んでいいのかどうかもわからないこのような存在が自然発生するとは考えにくかった。
「そうかもしれないね。ただ、この程度のものに後れを取ったりはしないと思うけど。もっと恐ろしいものがいるのかもしれないね」
いま相手にした狼はしぶとさが増して見た目が異様になった程度で、対処に困るというほどでもなかった。
「はい、先を急ぎましょう」
イセイはミヒルの無事を祈る。
タカマ山の主だった獣は、ミヒルを咥えたまま歩みを進めていた。その先に、奇妙な文字のような、模様のようなものが書かれた白い目隠しをした童女が待ち構えていた。
「シラス、君はこれに敵わなかったか。不覚を取ったようだね」
シキは不愉快そうに顔を歪めながら、とん、と軽く地面を蹴ると、狼の肩に飛び乗った。そして、奇妙に傾いた狼の頭に手を翳す。すると頭は首を離れて地に落ちた。遅れて、狼は体勢を崩し、動かなくなった。
シラスの足は狼の牙を離れて自由になったようだ。シキはシラスの左足を調べる。噛まれたまま移動を続けていた影響だろう、傷口が広がり、血が流れ続けている。
シキは手近な木に手を触れると、小さな小屋に組み上がった。
「ああ、そうか。ここは地上だった。この程度の力しか使えないのか」
ふと気配を感じ、後ろを振り向くと木の陰に仔狼を見つけた。
「おや、あれは……」
仔狼はシキに顔を向けられるとびくりと素早く身を翻して逃げ出し、姿を消した。
「……ふむ。こちらが先だな」
シキはシラスの両脇に手を差し入れ、そのまま引きずって小屋の中に運んだ。
「こういうとき、背が低いと不便だね」
ふう、と息を整えながら独り言ちる。小屋の中には、空の水桶と柄杓が用意されている。シキが水桶に手を触れると、水桶は小屋を出て森の中を転がっていった。続いて、シキは口を白い布で覆う。それからシラスの左足を改めて調べる。
「やはり、穢れが入り込んでいるな」
シキは小屋の土間で火を熾し、十数本の針先を炙っていく。その針を、シラスに刺していく。シラスは呻き声も上げない。
シキが治療を続けていると、小屋の入り口に、大きな猪が現れた。口には、木の蔓で作られた紐に吊り下げられた水桶を咥えている。水桶には満杯の水が汲まれていた。猪は、水桶を地面に置く。
「ご苦労さん、助かったよ。これはちょっとしたお礼だよ」
シキが猪の顎を撫でると、猪の目に知性の光が宿る。
「ありがとう。かみさま」
礼を述べた猪はその場を後にした。それを見送ると、シキは水桶を小屋に運び入れる。柄杓で水を土器に移し、土間の火に掛けた。続いて、細い短刀を炙り、シラスの傷口を開く。傷口から、どろりとした黒い血が溢れ、それを壺に溜めた。シキは、それをじっと見つめる。眉を寄せ、水桶から水をすくい、十分な量の水で傷口を洗い流す。
火に掛けていた水が沸騰し、土器を火から外す。それから、シラスの足に包帯を巻いていると、小屋に誰かが訪れた。
「ごめんください……シキ様!ようやく再会できましたね」
イセイはシキに気づくと顔を輝かせて駆け寄った。
「……ああ、うん。天と地は随分時間の流れが違うからね。ぎりぎり間に合ってよかったよ。シラスを助けることができた」
シキは両眉を上げて驚くが、内心の動揺を悟られないよう平静を装う。
「ミヒル様!よかった、ご無事だったのですね!」
イセイはミヒルに駆け寄り、顔を覗く。血の気がなく、苦しそうな表情をしている。無事とは言えないのかもしれない。
「ミヒル様?」
シキが首を傾げる。文脈的にシラスのことだと推測はできた。
「シキ様、ミヒル様は本当に大丈夫なのですか?」
イセイはシキに詰め寄る。
「うん、傷は深かったけど、処置は済んだ。今は苦しそうだけど、神格を封じているとはいえ神だからね、問題ないよ。それで、ミヒル様って?」
「申し訳ありません、取り乱しました。地上の者たちに私たちが神であることを明かすことはありませんので、人としての偽名を名乗っておくほうが無難だろう、とシラス様と話し合ったのです。それで、シラス様はミヒル、私はイセイと名乗ることにしました」
キサイが事情を説明するとシキは頷く。
「なるほどね。私も偽名を考えておこうかな。そちらの方はどなたかな?」
シキはキサイの後ろへ顔を向ける。
「僕は地上ではオキヒと名乗っているんだけど、神としての名はホムラだよ」
コメント